Me and my "opera". (or me and my "father", I should say.)


 オペラを聴き始めたのは結構早い。小学校低学年の頃です。全て父親の影響によるものでした。彼は無類の歌好きで、特にオペラとドイツ歌曲には目がありませんでした。

 私の父のオペラ、歌曲の楽しみ方は、聴くに留まらず歌うが半分、という迷惑なものでございました。私がピアノを習わされたのは、父がいつか個人で、シューベルトの歌曲組曲、「冬の旅」のリサイタルを開きたい、その野望の為に他なりませんでした。
(父は後から否定していましたが絶対にそうだ。)

 故に私は小学生の頃から冬の旅やら水車小屋の娘やら愛の媚薬やらカタログの歌やらもう飛ぶまいぞ....やらの伴奏を弾かされておりました。
 始めは無理やり、泣く泣くつき合わされていたのですが、そのうちこちらも楽しむようになりました。どれをとってもやはり綺麗な曲ですもの。同じ弾くなら楽しまにゃソンソン、です。
 しかし今考えてもまともに弾けていたとは思えない。(今だって満足に弾けない曲ばかりです。)要は音さえ取れれば良いと、父も父なりに我慢していたのでしょうか。気の毒に。

 しかしですね、人が気持ちよさそうに歌っているのを聴けば自分も歌いたくなるのが人情と言うもの。カラオケもオペラもそこは同じ。自然私も色々な歌を口ずさむようになりました。

 だけど不公平なことに父はピアノが弾けない。妹は聴くのは好きだったけど伴奏業務には興味がなく、ピアノを早い頃から放棄していた兄は既にビートルズに転び、私たちのご乱行を横目であざ笑うだけ。私は歌曲もオペラも”弾き語り”で楽しむことになったのですね。ぐすん。

 小学校高学年になる頃には私と父、妹でリゴレットの四重唱などを、カセットテープにあわせ声高らかに歌うという、なんとも騒々しい迷惑家族が出来上がっていました。
 どうやって四重唱を三人で歌ったか?それは無論、欠けていたテナーを手の(喉の)開いている人が歌ったんです。無茶苦茶ですが、要は楽しめれば良かったんです。テナーがオイシイパートだっただけに奪い合いにもなりましたっけ。

 母はオペラ好きではあったのですが、恥という言葉の意味を知っていたのか、決して私たちの重症、もとい重唱に加わることはなかったのでした。
 ただ父の方は、色々なパーティーの度に、自慢の喉を頼まれなくても披露していたみたいです。我が家に人を呼んだときには当然私が伴奏者として狩り出されました。歌わされることはありませんでしたが。父はこと歌に関しては、自分に甘く他人に厳しくの典型のような人でございました。

 父の名誉の為に言っておきますが、元々白薔薇会?とか言う合唱サークルで母と知り合ったという彼は、独学ではあれかなりの美声ではありました。ただ御贔屓のフィッシャー・ディスカウを聴きに行く度に(当時ドイツに住んでいたので、嬉しいことに彼のステージを堪能する機会が何度かあったのですね)横にいる母に真顔で「俺とどっちが上手い?」なんて聴いていたのはあまりにずうずうしいと言える。

 そんな風にして育った私の夢は、当然オペラ歌手になることでした。中学生まではね。なぜ中学生かと言うと、高校入ってからやっと気付いたんです。自分が歌下手だって(笑)。

 
 さて、小学生の頃、子供心に一番始めに好きになったオペラはやっぱりカルメンかな。ドン・ホセ悲恋の物語も分かりやすかったし、覚えやすくも色っぽいカルメンの歌う様々なメロディーに心ときめかせたものです。メゾソプラノだから一緒に口ずさめるのも楽しかったし。しかしあの頃耳コピで歌っていた謎のフランス語。思い出すだけで笑えます。

 それからモーツァルト。魔笛のコミカルな歌の数々は子供にも楽しかった。夜の女王のアリアをひーひー歌ってみたり。フィガロのコケティッシュな舞台は意味が分からなくても見ているだけで楽しかったし。ドン・ジョバンンニはドンナ・アンナの激しいアリアが殊の外お気に入りでした。

 私が住んでいた町デュッセルドルフのオペラハウスは、ドイツ屈指とまでは行かなくてもなかなか優秀だったように思います。両親は会員になって月一回ペースで通っていましたが、その他にも面白そうな出し物の時は家族揃って見に行きました。天井桟敷席で当時700円〜1000円位だったかな。

 さすがドイツだけあってモーツァルトは良く出ていた気がしますし、イタリア物もわりと幅広くやっていたし、とりあえず手当たり次第見たという感じでしょうか。

 魔笛やフィガロは何度も見たし、ドン・ジョバンニにコシ・ファン・トゥッテ。リゴレット、椿姫、オランダ人、トスカ、ボエーム、バタフライ、ホフマンなんかも。魔弾の射手にファウスト。カルメン。セヴィリアの理髪師。クリスマスにはヘンゼルとグレーテル。年末にやるシュトラウスのこうもりは家族そろってお気に入りでした。
 母が好まない出し物の時は私に券を譲ってくれ、二階正面の贅沢な会員席で見る事が出来ました。スペードの女王とかシモン・ボッカネグラ。アンドレア・シェニエなんか。

 今思うとゴージャスでした(涙)。中三になる直前、日本に帰国してからは、ともかく値段が高くて殆ど見に行けませんでしたね。だから次第にオペラから離れて行った気もします。中学に入ってからはポップスにも転んでいたので、そちらを追いかけるのにも忙しかったというのもあり。

 それでも学生になり、バイトして若干経済的に余裕が出来ると、今度はCDで買えるようになる。中古CD屋を巡って少しづつ集め始めましたっけ。昔好きだったものから、逆にあまり聴かなかったプッチーニとか。
 
 何故かワーグナーを面白いと思えるようになったのはここ数年。それまではオランダ人とタンホイザー位しか好んで聴かなかったんですが。だから未だに生で指輪を見たことがない。今の野望はこれですね。生で指輪を通しで見る。いつかはバイロイトに・・・。

 オペラに関する思い出は書き始めると後を絶ちません。小学校何年生だったか、両親へのクリスマスプレゼントに何をあげようかと子供三人で相談していた所に、兄が安売りのタンホイザー全曲LPを見つけてきた。当たり確実なプレゼントに、それから半月大騒ぎ。母や父に、
 「ねえ、これからクリスマスまでに何かLP買う?ワーグナーは買わないでね。特に炭鉱節(なぜか三人でタンホイザーをそう呼んでいたのだ)は買っちゃダメだよ!」
 と兄が堂々と宣言。バレバレじゃーないか!両親はさぞかし笑いをこらえるのに必死だったことでしょう。

 余談ですが、父が病で亡くなったのは私が19の時です。自宅療養をしながらも歌を歌うのをやめようとはしませんでしたが、だんだん気力も萎え、視力も弱り、難しい曲は歌えなくなって行く。楽譜が見えない。覚えていた筈の歌詞も忘れて行く。

 ある日ついに歌えなくなった。「歌う?」と誘うとピアノの前までは来たけれど、私がいくら弾いても黙ったまま彼は口を開かなかった。ついに一曲弾き終わって、そのまま父を寝台に運んだ、あの最後の曲は冬の旅の24番でした。父の十八番の曲でした。娘にピアノを弾かせ、リサイタルを開きたいという彼の夢はかなわずに終わってしまいました。やりたい事は早めにやっておきましょうね〜皆様。

 
 

1998/04/01 Y.K.